やさしく読む歎異抄 第十一条 一文不通のともがらの
原文とやさしい訳
②と③は、原文では一つの長い文です。読みやすいように二つに分けました。
原文 1
一文不通のともがらの念仏まふすにあふて、なんぢは誓願不思議を信じて念仏まふすか、また名号不思議を信ずるかと、いひおどろかして、ふたつの不思議の子細をも、分明にいひひらかずして、ひとのこころをまどはすこと、この条かへすがへすもこころをとどめて、おもひわくべきことなり。
やさしい訳: 文字を知らず、学問もない人たちが、ただ念仏しています。そういう人に向かって、「あなたは、阿弥陀さまの誓いの不思議を信じて念仏しているのか。それとも、名号(阿弥陀さまの名前)の不思議を信じているのか」と言って、驚かせる人がいます。二つの不思議が何なのかを、はっきり説明もしないで、人の心を迷わせるのです。このことは、よくよく心にとめて、考え分けなければなりません。
解釈(独自): 難しい問いに答えられなくても、念仏する心まで揺らがなくてよいのです。
原文 2
誓願の不思議によりて、やすくたもち、となへやすき名号を案じいだしたまひて、この名字をとなへんものを、むかへとらんと御約束あることなれば、
やさしい訳: 阿弥陀さまは、誓いの不思議なはたらきによって、名号を考え出してくださいました。だれでも心にたもちやすく、となえやすい名前です。そして、「この名をとなえる人を、迎えとろう」と約束してくださいました。
解釈(独自): 念仏は、私たちが考え出したものではありません。阿弥陀さまから先に届けられたものです。
原文 3
まづ弥陀の大悲大願の不思議にたすけられまいらせて、生死をいづべしと信じて、念仏のまふさるるも、如来の御はからひなりとおもへば、すこしもみづからのはからひまじはらざるがゆへに、本願に相応して真実報土に往生するなり。
やさしい訳: ですから、まず、阿弥陀さまの大きな慈悲の誓いに助けられて、迷いの世界を出られると信じます。念仏が口から出るのも、阿弥陀さまのはからいだと思えば、自分のはからいは少しもまじりません。それで、本願にかなって、本当の浄土に生まれるのです。
解釈(独自): 信じることも、念仏が口から出ることも、自分の手柄ではありません。
原文 4
これは誓願の不思議をむねと信じたてまつれば、名号の不思議も具足して、誓願名号の不思議、ひとつにしてさらにことなることなきなり。
やさしい訳: これは、誓いの不思議を何よりも信じれば、名号の不思議もそこにそなわっている、ということです。誓いの不思議と名号の不思議は一つで、少しも違いません。
解釈(独自): 「誓いか、名号か」と分ける必要はありません。
原文 5
つぎにみづからのはからひをさしはさみて、善悪のふたつにつきて、往生のたすけさはり、二様におもふは、誓願の不思議をばたのまずして、わがこころに往生の業をはげみて、まふすところの念仏をも、自行になすなり。
やさしい訳: 次に、自分のはからいをはさむ人がいます。「よいことをすれば往生の助けになり、悪いことをすれば往生のさまたげになる」と、二通りに考える人です。この人は、誓いの不思議にまかせていません。自分の心で、往生のための行いに励んでいます。となえる念仏まで、自分の力でする行いにしてしまっているのです。
解釈(独自): 往生は、自分の行いのよしあしではなく、阿弥陀さまの誓いによって決まります。
原文 6
このひとは名号の不思議をもまた信ぜざるなり。
やさしい訳: この人は、名号の不思議も、また信じていないのです。
原文 7
信ぜざれども辺地懈慢疑城胎宮にも往生して、果遂の願のゆへに、つゐに報土に生ずるは、名号不思議のちからなり。
やさしい訳: 信じていなくても、その人は、仮の浄土には生まれます。そして、果遂の願によって、最後には本当の浄土に生まれます。それができるのは、名号の不思議の力です。
解釈(独自): 信じきれない人も、阿弥陀さまは見捨てません。
原文 8
これすなはち誓願不思議のゆへなれば、ただひとつなるべし。
やさしい訳: そしてそれは、誓いの不思議があるからです。ですから、二つの不思議は、ただ一つなのです。
言葉の意味
- 一文不通
- 文字を一字も知らないこと。学問がないこと。古い訳では「文字も学問もない」と言っています。
- 誓願不思議
- 阿弥陀さまの誓い(本願)の、人の考えをこえたはたらき。古い訳では「弥陀如来の大慈悲の誓願の不思議」と言っています。
- 名号不思議
- 名号は、阿弥陀さまの名前。「南無阿弥陀仏」の六字のことです。その名前の、人の考えをこえたはたらき。
- 生死
- 生まれては死に、死んでは生まれることをくり返す、迷いの世界。古い訳では「生死をはなるゝ」と言っています。
- 真実報土
- 本当の浄土。古い訳では「真実の報土」と言っています。報土は、仏の住む浄土のことです。
- 自行
- 自分の力でする行い。古い訳では、念仏を「わが善とし、往生の業として励む」と言っています。
- 辺地懈慢疑城胎宮
- 本当の浄土の手前にある、仮の浄土の呼び名。古い訳では「方便の浄土」と言っています。同じ本の言葉の解説では、辺地は「疑惑の行者の生るゝ處」とされています。懈慢界は、仏の智慧を疑って、自分の力に頼る人が生まれる所、と説明されています。
- 果遂の願
- 仮の浄土に生まれた人も、最後には本当の浄土に生まれさせる、という阿弥陀さまの願い。四十八の願いの中の、第二十の願です。古い訳では「果遂の願力によつて、つひに真実の報土に往生する」と言っています。
一言でいうと
阿弥陀さまの誓いと、その名前(南無阿弥陀仏)は、別々のものではない。一つのはたらき。
第十一条から第十八条までは、歎異抄を書いた人が、親鸞聖人の教えと違う考えを一つずつ取り上げる部分です。そうした考えは、聖人が亡くなったあとに広まりました。第十一条は、その一つめです。
たとえ
「どっちが好きなの?」
好きな歌手を応援しているだけなのに、「曲が好きなの?それとも本人が好きなの?」と問いつめられて、答えにつまったことはありませんか。歌と、歌う人は、分けられるものではありません。
第十一条は、ただ念仏している人に「誓いの不思議を信じているのか、名前の不思議を信じているのか」と問いつめ、わけも説明しないまま心を迷わせることを、取り上げています。
「いいことをしたから、合格できる」
受験の前に、「電車で席をゆずったから、きっと合格できる」「さぼった日があるから、落ちるかもしれない」と考えることはありませんか。
第十一条は、自分の行いのよしあしで往生が決まると考えるのは、阿弥陀さまの誓いにまかせていないことだ、と言います。
「ルートを再検索します」
スマホの地図を信じずに、自分の判断で別の道に入っても、地図は「ルートを再検索します」と、何度でも道を出し直してくれます。
第十一条は、誓いの不思議を信じず、自分の力にたよる人も、仮の浄土に生まれ、そこから最後には本当の浄土に生まれる、と言います。それも名号の不思議の力だ、と言います。
たとえるなら、「お母さん」と呼ぶ声
人ごみに出かける前に、お母さんが小さな子に言います。「はぐれたら、大きな声で『お母さん』と呼んでね。必ず迎えに行くから」。子どもは、難しいことを覚えなくてもかまいません。呼べば、お母さんは約束どおり迎えに来てくれます。呼ぶ声と、迎えに行くという約束は、別々のものではありません。
第十一条も、誓いの不思議と名前の不思議は、ただ一つだ、と言います。
それぞれ、次のものにあたります。
迎えに行くという約束 → 阿弥陀さまの誓い
「お母さん」と呼ぶ声 → 名前(南無阿弥陀仏)
この四つのたとえは、分かりやすくするために作ったものです。お寺や学者の説明ではありません。
出典
- 原文:本派本願寺 編『意訳聖典』(大正12年・1923年)の「歎異鈔」十一の原文と、西村九郎右衛門 編『歎異鈔』(明治44年・1911年)を照らし合わせました。どちらも国立国会図書館デジタルコレクションで公開されています。第十条までと同じ書き方(「まふす」「ゆへ」など)です。旧字は今の字に、くり返しの記号(ゝ・〳〵)は字に直しました。二つの本で違う所は、もう一つの本文(東本願寺発行『真宗聖典』)と同じ方にしました(例:「子細」「こころをとどめて」「念仏の」)。「ゆへ」は第十条までにそろえました。読点は、二つの本のどちらかにある所に打ちました。『真宗聖典』の本文は『親鸞仏教センター通信』第12号(2004年)で見ました。 意訳聖典(国立国会図書館) 歎異鈔 1911年(国立国会図書館) 親鸞仏教センター通信 第12号(PDF)
- 本派本願寺 編『意訳聖典』(大正12年・1923年)の「歎異鈔」十一の意訳と、巻末の言葉の解説。 ウィキソース
- コトバンク「歎異抄」。 kotobank.jp
- コトバンク「一文不通」。 kotobank.jp
- コトバンク「名号」。 kotobank.jp
- コトバンク「報土」。 kotobank.jp
- コトバンク「懈慢界」。 kotobank.jp
- コトバンク「生死」。 kotobank.jp
「やさしい訳・解釈・たとえ」は、出典をもとに GREEN EARTH HAYAMA が独自の解釈でまとめたものです。宗派や寺院の公式な解釈ではありません。読み方は、宗派や研究者によって異なります。
本コーナーで扱う原文は、約700年前に記された『歎異抄(たんにしょう)』の蓮如(れんにょ)書写本に基づいています。