やさしく読む歎異抄 第十二条 経釈をよみ学せざるともがら
原文とやさしい訳
第十二条は長いので、原文を16に分けました。⑩と⑪は、原文では一続きの文です。「」で示した言葉は、⑨から⑩、⑫から⑬にまたがっています。
原文 1
経釈をよみ学せざるともがら往生不定のよしのこと。この条すこぶる不足言の義といひつべし。
やさしい訳: 「お経や、その解説の本を読んで学ばない人は、往生できるかどうか分からない」という考えがあります。これは、取り上げるにも足りない、まちがった考えと言うべきです。
解釈(独自): 往生のために、学問は条件ではありません。
原文 2
他力真実のむねをあかせるもろもろの聖教は、本願を信じ、念仏をまふさば、仏になる。そのほか、なにの学問かは往生の要なるべきや。
やさしい訳: 阿弥陀さまの力(他力)の本当の教えを説く本は、どれも「本願を信じ、念仏すれば、仏になる」と言っています。そのほかに、往生のためにどんな学問が要るでしょうか。
原文 3
まことにこのことはりに、まよへらんひとは、いかにもいかにも学問して、本願のむねをしるべきなり。
やさしい訳: もちろん、この道理が分からずに迷っている人は、しっかり学問をして、本願の意味を知るとよいのです。
解釈(独自): 学問は、迷っている人が本願の意味を知るためにあります。
原文 4
経釈をよみ学すといへども、聖教の本意をこころえざる条、もとも不便のことなり。
やさしい訳: けれども、お経や解説を読んで学んでも、教えの本当の意味が分からないなら、まことに気の毒なことです。
原文 5
一文不通にして、経釈のゆくちもしらざらんひとの、となへやすからんための名号にて、おはしますゆへに、易行といふ。
やさしい訳: 名号(南無阿弥陀仏)は、文字を知らず、お経の筋道も知らない人でも、となえやすいように用意されたものです。だから「易行(やさしい行)」と言います。
解釈(独自): 念仏が「やさしい行」なのは、文字を知らない人も取り残さないためです。
原文 6
学問をむねとするは聖道門なり、難行となづく。
やさしい訳: 学問を中心にするのは、聖道門の教えです。これを「難行(むずかしい行)」と言います。
原文 7
あやまて学問して、名聞利養のおもひに住するひと、順次の往生いかがあらんずらんといふ証文もさふらうぞかし。
やさしい訳: 「まちがった心で学問をして、名誉や得をすることばかり考える人は、次の世で往生できるだろうか」という、お経などに書かれた言葉もあります。
原文 8
当時専修念仏のひとと、聖道門のひとと、諍論をくはだてて、わが宗こそすぐれたれ、ひとの宗はおとりなりといふほどに、法敵もいできたり、謗法もおこるなり。これしかしながら、みづからわが法を破謗するにあらずや。
やさしい訳: このごろ、念仏ひとすじの人と、聖道門の人とが、言い争いをしています。「自分の宗派こそすぐれている。相手の宗派はおとっている」と言い合ううちに、教えの敵も出てきて、教えをそしることも起こります。これは結局、自分で自分の教えをこわし、そしっていることになりませんか。
解釈(独自): 勝ち負けを争うと、教えそのものが傷つきます。
原文 9
たとひ諸門こぞりて、念仏は、かひなきひとのためなり、その宗あさしいやしといふとも、さらにあらそはずして、われらがごとく、下根の凡夫、一文不通のものの、信ずれば、たすかるよし、うけたまはりて信じさふらへば、さらに上根のひとのためには、いやしくとも、われらがためには最上の法にてまします。
やさしい訳: たとえ、ほかの宗派の人がそろって「念仏は、力のない人のためのもの。その宗派は浅く、いやしい」と言っても、少しも言い返さずに、こう言えばよいのです。「私たちのように、力の足りない凡夫(ふつうの人)で、文字も知らない者でも、信じれば助かると聞いて、信じています。すぐれた人から見ればいやしくても、私たちにとっては、この上ない教えです。
解釈(独自): 争わないことが、かえって教えを守ることになります。
原文 10
たとひ自余の教法は、すぐれたりとも、みづからがためには、器量およばざれば、つとめがたし。われもひとも生死を、はなれんことこそ諸仏の御本意にておはしませば、御さまたげ、あるべからずとて、
やさしい訳: ほかの教えがすぐれていても、私たちには力が足りないので、つとめられません。私も人も、迷いの世界をはなれることこそ、仏さまたちの願いです。ですから、どうかじゃまをしないでください」。
原文 11
にくい気せずは、たれのひとかありて、あだをすべきや。かつは諍論のところには、もろもろの煩悩おこる、智者遠離すべきよしの、証文さふらうにこそ。
やさしい訳: こうして、にくむ気持ちを見せなければ、だれが害を加えるでしょうか。それに、「言い争いの場では、いろいろな煩悩が起こる。知恵のある人は、そこから遠くはなれよ」という、お経などに書かれた言葉もあります。
解釈(独自): 言い争いの場からは、はなれてよいのです。
原文 12
故聖人のおほせには、この法をば信ずる衆生もあり、そしる衆生もあるべしと、仏ときをかせたまひたることなれば、われはすでに信じたてまつる。またひとありて、そしるにて、仏説まことなりけりと、しられさふらう。しかれば往生はいよいよ一定と、おもひたまふべきなり。
やさしい訳: 亡くなった親鸞聖人は、こうおっしゃいました。「この教えを信じる人もいれば、そしる人もいるだろうと、お釈迦さまが説いておかれました。私はもう信じています。そして、そしる人がいることで、お釈迦さまの言葉は本当だったと分かります。ですから、往生はいよいよまちがいない、と思ってください。
解釈(独自): 悪く言われても、自分の信じる道まで疑わなくてよいのです。
原文 13
あやまて、そしるひとのさふらはざらんにこそ、いかに信ずるひとはあれども、そしるひとのなきやらんとも、おぼえさふらひぬべけれ。かくまふせばとて、かならず、ひとにそしられんとにはあらず。仏のかねて信謗ともに、あるべきむねを、しろしめして、ひとのうたがひを、あらせじと、ときをかせたまふことを、まふすなりとこそさふらひしか。
やさしい訳: もし、そしる人がいなかったら、『信じる人はいるのに、どうしてそしる人がいないのだろう』と、かえって不思議に思うでしょう。こう言っても、ぜひ人にそしられたい、というのではありません。お釈迦さまは、信じる人もそしる人もいることを前から知っていて、人が疑いをもたないように説いておかれました。そのことを言っているのです」と。
原文 14
いまの世には、学問して、ひとのそしりをやめん、ひとへに論議問答をむねとせんと、かまへられさふらうにや。学問せば、いよいよ如来の御本意をしり、悲願の広大のむねをも存知して、いやしからん身にて、往生は、いかがなんど、あやぶまんひとにも、本願には善悪浄穢なきおもむきを、とききかせられ、さふらはばこそ、学生の甲斐にてもさふらはめ。
やさしい訳: 今の世では、学問をして人のそしりをやめさせよう、議論や問答ばかりを大事にしようと、身がまえているのでしょうか。学問をすれば、阿弥陀さまの本当の願いを深く知り、その慈悲の誓いがどれほど大きいかも分かるはずです。そうして、「こんな私が往生できるだろうか」と不安に思う人に、「本願は、善い人か悪い人か、きれいかけがれているかで、分けへだてしません」と説いて聞かせてこそ、学問をしたねうちがあるのです。
解釈(独自): 学問は、不安な人を安心させるために使うものです。
原文 15
たまたま、なにごころもなく、本願に相応して、念仏するひとをも、学問してこそなんどと、いひおどさるること、法の魔障なり。仏の怨敵なり。
やさしい訳: ご縁があって、何のはからいもなく、本願にかなって念仏している人がいます。その人に「学問もしないで、救われるものか」などとおどすのは、教えのじゃまをする魔です。仏さまの敵です。
解釈(独自): 学問を、人を不安にさせるために使ってはいけません。
原文 16
みづから他力の信心かくるのみならず、あやまて他をまよはさんとす。つつしんでおそるべし、先師の御こころに、そむくことを。かねてあはれむべし、弥陀の本願にあらざることを。
やさしい訳: その人は、自分に他力の信心が欠けているだけでなく、まちがって、ほかの人まで迷わせようとしています。亡き先生(親鸞聖人)の心にそむくことを、つつしんで恐れなければなりません。そして、阿弥陀さまの本願にかなっていないことを、あわれに思わなければなりません。
言葉の意味
- 経釈
- お経と、その解説の本。古い訳では「経文や、その解釈の書物」と言っています。
- 不足言
- 言うにも足りないこと。古い訳では「不合理千万」と言っています。
- 聖道門
- 自分の力で修行して、この世でさとりをめざす教え。浄土の教えと対になる言葉です。
- 名聞利養
- 名誉と、得をすることを求める心。古い訳では「名誉とし利慾をおこす」と言っています。
- 専修念仏
- 念仏ひとすじにはげむこと。古い訳では「専ら念仏を修する人」と言っています。
- 謗法
- 仏の教えを悪く言い、軽んじること。
- 下根
- 教えを受けとる力がおとっていること。古い訳では「下根の浅ましき、無智なもの」と言っています。
- 学生
- 学問をする人。古い訳では「学者」と言っています。
- 魔障
- 教えのじゃまをするもの。古い訳では「教法をかきみだす悪魔」と言っています。
一言でいうと
念仏で救われるのに、学問はいらない。学問は、不安な人を安心させるためのもの。
第十一条から第十八条までは、歎異抄を書いた人が、親鸞聖人の教えと違う考えを一つずつ取り上げる部分です。第十二条は、その二つめです。
たとえ
「大学へ行かないと、話にならない」
「ちゃんと勉強して大学へ行かないと、話にならない」と言われて、ムカッとしたことはありませんか。
第十二条は、お経を読んで学ばない人は往生できるかどうか分からない、という考えを取り上げ、それはまちがいだと言います。
「どっちの大学が上か」の言い合い
SNSで、「うちの大学の方が上」「そっちは下」と学歴を言い合い、炎上するのを見たことはありませんか。「私には、この大学が合っている」と言うだけなら、争いにはなりません。
第十二条は、宗派どうしが優劣を争うと、かえって自分の教えをこわすことになる、と言います。そして、言い返さずに「私たちには、この上ない教えです」と言えばよい、とも言います。
悪い口コミも、あるもの
人気のお店にも、必ず悪く言う人がいます。それを前から知っていれば、悪い口コミを見ても、あわてずにすみます。
お釈迦さまは、信じる人もそしる人もいると、前から説いておかれました。だから、そしる人がいることで、かえって教えが本当だと分かります。第十二条で親鸞聖人は、そう言います。
たとえるなら、道にくわしい人
道にくわしい人の中には、「この道で合っているかな」と不安な人に、「大丈夫、この道で着きますよ」と教えてあげる人がいます。同じようにくわしくても、「地図も読めないの?」と批判する人もいます。
第十二条も、学問は、不安な人に「本願は、だれも分けへだてしない」と伝えるためにある、と言います。
それぞれ、次のものにあたります。
道にくわしいこと → 学問
「この道で着きますよ」 → 本願を説いて聞かせること
「地図も読めないの?」 → 「学問もしないで、救われるものか」と批判して、不安にさせること
この四つのたとえは、分かりやすくするために作ったものです。お寺や学者の説明ではありません。
出典
- 原文:本派本願寺 編『意訳聖典』(大正12年・1923年)の「歎異鈔」十二の原文と、西村九郎右衛門 編『歎異鈔』(明治44年・1911年)を照らし合わせました。どちらも国立国会図書館デジタルコレクションで公開されています。第十条までと同じ書き方(「まふす」「ゆへ」など)です。旧字は今の字に、くり返しの記号(ゝ・〳〵)は字に直しました。二つの本で違う所は、もう一つの本文(東本願寺発行『真宗聖典』)と同じ方にしました。「ゆへ」「さふらう」は第十条までにそろえました。読点は、二つの本のどちらかにある所に打ちました。『真宗聖典』の本文は『親鸞仏教センター通信』第13号・第14号・第15号で見ました。 意訳聖典(国立国会図書館) 歎異鈔 1911年(国立国会図書館) 通信 第13号 第14号 第15号
- 本派本願寺 編『意訳聖典』(大正12年・1923年)の「歎異鈔」十二の意訳。 ウィキソース
- コトバンク「歎異抄」。 kotobank.jp
- コトバンク「聖道門」。 kotobank.jp
- コトバンク「謗法」。 kotobank.jp
「やさしい訳・解釈・たとえ」は、出典をもとに GREEN EARTH HAYAMA が独自の解釈でまとめたものです。宗派や寺院の公式な解釈ではありません。読み方は、宗派や研究者によって異なります。
本コーナーで扱う原文は、約700年前に記された『歎異抄(たんにしょう)』の蓮如(れんにょ)書写本に基づいています。