やさしく読む歎異抄 第十三条 弥陀の本願不思議におはしませばとて
原文とやさしい訳
第十三条は長いので、原文を16に分けました。④から⑦は、原文では一続きの長い文で、歎異抄を書いた人(唯円)と聖人の問答です。訳の「私」は唯円です。
原文 1
弥陀の本願不思議におはしませばとて、悪をおそれざるは、また本願ぼこりとて、往生かなふべからずといふこと。この条本願をうたがふ、善悪の宿業をこころえざるなり。
やさしい訳: 「阿弥陀さまの本願は不思議な力をもっているからといって、悪いことをおそれないのは、本願にあまえる『本願ぼこり』だ。そういう人は往生できない」という考えがあります。これは、本願を疑うことです。善いことも悪いことも、これまでの縁(宿業)から起こる、ということが分かっていないのです。
解釈(独自): 「あの人は救われない」と決めるのは、本願ではなく、私たちの考えです。
原文 2
よきこころのおこるも、宿善のもよほすゆへなり。悪事のおもはせらるるも、悪業のはからふゆへなり。
やさしい訳: 善い心が起こるのも、これまでの善い縁(宿善)にうながされるからです。悪いことを思ってしまうのも、これまでの悪い行い(悪業)がはたらくからです。
解釈(独自): 善い心が起きた時も、誇らなくてよいのです。
原文 3
故聖人のおほせには、兎毛羊毛のさきにゐる、ちりばかりも、つくるつみの宿業にあらずといふことなしとしるべしとさふらひき。
やさしい訳: 亡くなった親鸞聖人は、「うさぎや羊の毛の先にのるちりほどの、ほんの小さな罪でも、これまでの縁(宿業)によらないものはない、と知りなさい」とおっしゃいました。
原文 4
またあるとき唯円房は、わがいふことをば信ずるかと、おほせのさふらひしあひだ、さんさふらうと、まふされさふらひしかば、さらば、わがいはんこと、たがふまじきかと、かさねておほせのさふらひしあひだ、つつしんで領状まふされてさふらひしかば、
やさしい訳: また、あるとき、聖人は私に「唯円房は、私の言うことを信じるか」とたずねられました。私が「はい、信じます」とお答えすると、聖人は重ねて「それなら、私の言うことに、そむかないか」とおっしゃいました。私は、つつしんで「はい」とお答えしました。
原文 5
たとへば、ひとを千人ころしてんや、しからば往生は一定すべしと、おほせさふらひしとき、おほせにてはさふらへども、一人も、この身の器量にては、ころしつべしとも、おぼえずさふらうと、まふされてさふらひしかば、
やさしい訳: すると聖人は、「たとえば、人を千人殺すか。そうすれば、往生はまちがいない」とおっしゃいました。私は「おっしゃることではありますが、私の力では、一人さえ殺せるとは思えません」とお答えしました。
原文 6
さてはいかに親鸞がいふことを、たがふまじきとは、いふぞと。これにてしるべし。なにごとも、こころにまかせたることならば、往生のために千人ころせといはんに、すなはちころすべし。しかれども、一人にてもころすべき業縁なきによりて、害せざるなり。わがこころのよくて、ころさぬにはあらず。また害せじとおもふとも、百人千人をころすこともあるべしと、
やさしい訳: すると聖人は言われました。「それなら、なぜ、私の言うことにそむかない、と言ったのか。これで分かるだろう。何でも自分の心のままにできるのなら、往生のために千人殺せと言われれば、すぐに殺すはずだ。けれども、一人でも殺すような縁(業縁)がないから、殺さないのだ。自分の心が善いから、殺さないのではない。また、殺すまいと思っていても、百人、千人を殺してしまうこともあるだろう」。
解釈(独自): 悪いことをしないでいられるのは、自分の力だけではありません。
原文 7
おほせのさふらひしは、われらが、こころのよきをばよしとおもひ、あしきことをばあしとおもひて、本願の不思議にて、たすけたまふといふことを、しらざることを、おほせのさふらひしなり。
やさしい訳: 聖人がこうおっしゃったのは、私たちが、心が善い時は自分は善いと思い、悪い時は自分は悪いと思うばかりで、本願の不思議な力で助けてくださるということを知らずにいる、そのことを教えるためでした。
解釈(独自): 自分の善し悪しにとらわれていると、本願に助けられていることが見えなくなります。
原文 8
そのかみ邪見におちたるひとあて、悪をつくりたるものを、たすけんといふ願にてましませばとて、わざとこのみて、悪をつくりて、往生の業とすべきよしをいひて、やうやうにあしざまなることのきこえさふらひしとき、御消息に、くすりあればとて毒をこのむべからずとこそあそばされてさふらうは、かの邪執をやめんがためなり。
やさしい訳: その昔、まちがった考えにとらわれた人がいました。その人は「悪いことをした者を助けるという願いなのだから」と言って、わざと好んで悪いことをして、それを往生のための行いにすればよい、と言いふらしました。そうした悪いうわさが聞こえてきた時、聖人はお手紙に「薬があるからといって、毒を好んではいけない」と書かれました。それは、そのまちがったこだわりをやめさせるためでした。
解釈(独自): わざと悪を好むのは、まちがったこだわりです。
原文 9
またく悪は往生のさはりたるべしとにはあらず。
やさしい訳: 悪いことが往生のさまたげになる、という意味では、まったくありません。
原文 10
持戒持律にてのみ本願を信ずべくは、われらいかでか、生死をはなるべきや。かかるあさましき身も、本願にあひたてまつりてこそ、げにほこられさふらへ。さればとて身にそなへざらん悪業は、よもつくられさふらはじものを。
やさしい訳: 戒律を守れる人だけが本願を信じられるのなら、私たちは、どうして迷いの世界をはなれられるでしょうか。こんなにあさましい私でも、本願に出会えたからこそ、本当に安心してあまえられるのです。だからといって、自分にその縁のない悪いことは、しようとしてもできるものではありません。
解釈(独自): あさましい自分のままで本願に出会えることが、安心のもとです。
原文 11
また、うみかはに、あみをひき、つりをして、世をわたるものも、野やまに、ししをかり、鳥をとりて、いのちをつぐともがらも、あきなひをもし、田畠をつくりて、すぐるひとも、ただおなじことなり。さるべき業縁のもよほせば、いかなるふるまひもすべしとこそ聖人はおほせさふらひしに、
やさしい訳: 海や川で網を引き、釣りをして暮らす人も、野山で獣をかり、鳥をとって生きる人も、商いをしたり、田畑を作ったりして暮らす人も、みな同じです。どの暮らしも、縁によって営まれています。「そうなる縁がうながせば、人はどんなふるまいもしてしまう」と、聖人はおっしゃっていました。
解釈(独自): 仕事や暮らし方で、人の善し悪しは決まりません。
原文 12
当時は後世者ぶりして、よからんものばかり念仏まふすべきやうに、あるひは道場にはりぶみをして、なんなんのことしたらんものをば、道場へいるべからず、なんどといふこと、ひとへに賢善精進の相を、ほかにしめして、うちには虚仮をいだけるものか。
やさしい訳: それなのに、このごろは、いかにも信心深い人のふりをして、善い人だけが念仏すべきだというように、道場(念仏の集まりの場)に張り紙をする人がいます。「これこれのことをした者は、道場に入ってはいけない」などと言うのです。それは、外には賢く善く励んでいる姿を見せて、内にはうそいつわりの心をいだいているのではないでしょうか。
解釈(独自): 外では善い人に見せていても、心の内までそうとは限りません。
原文 13
願にほこりて、つくらんつみも、宿業のもよほすゆへなり。さればよきことも、あしきことも、業報にさしまかせて、ひとへに本願をたのみまいらすればこそ、他力にてはさふらへ。
やさしい訳: 本願にあまえて罪をつくってしまうのも、宿業にうながされるからです。ですから、善いことも悪いことも、これまでの行いの報い(業報)にまかせて、ひとすじに本願にたよることこそが、他力なのです。
解釈(独自): 善い自分も悪い自分も、そのまま阿弥陀さまにまかせるのが他力です。
原文 14
唯信鈔にも、弥陀いかばかりのちからましますとしりてか、罪業の身なれば、すくはれがたしとおもふべきとさふらうぞかし。本願にほこるこころのあらんにつけてこそ、他力をたのむ信心も決定しぬべきことにてさふらへ。
やさしい訳: 『唯信鈔』という本にも、「阿弥陀さまにどれほどの力があると知って、罪深い身だから救われにくい、と思うのか」と書かれています。本願にあまえる心があるにつけても、「こんな私を助けてくださるのだ」と、他力にたよる信心が、しっかり定まるのです。
解釈(独自): あまえる心は、救われない理由ではありません。助けてもらえると知るきっかけです。
原文 15
おほよそ悪業煩悩を断じつくしてのち、本願を信ぜんのみぞ、願にほこるおもひもなくて、よかるべきに、煩悩を断じなば、すなはち仏なり。仏のためには、五劫思惟の願、その詮なくやましまさん。
やさしい訳: もし、悪い行いや煩悩をすっかりなくしてから本願を信じるのなら、本願にあまえる思いもなくて、よいでしょう。けれども、煩悩をなくしたなら、その人はもう仏です。仏になった人には、阿弥陀さまが長い長い時間をかけて考えた願いも、意味がなくなってしまうのではないでしょうか。
解釈(独自): 本願は、煩悩をかかえたままの私たちのためにあります。
原文 16
本願ぼこりといましめらるるひとびとも、煩悩不浄具足せられてこそさふらうげなれ。それは願にほこらるるにあらずや。いかなる悪を本願ぼこりといふ。いかなる悪か、ほこらぬにてさふらうべきぞや。かへりてこころをさなきことか。
やさしい訳: 「本願ぼこり」をいましめる人たちも、煩悩やけがれを身にそなえているようです。それは、その人たちも本願にあまえていることになりませんか。どんな悪が本願ぼこりで、どんな悪がそうでないと言えるのでしょうか。そう分けようとするのは、かえって幼い考えではないでしょうか。
解釈(独自): 本願ぼこりかどうかを、人が決めて責めることはできません。
言葉の意味
- 本願ぼこり
- どんな悪人も助けるという阿弥陀さまの本願の慈悲に、もたれかかって、つけあがること。古い訳では「本願にあまへて、つけあがる」と言っています。
- 宿業
- これまでの行いが、今の自分にはたらくこと。辞書では「前世の善悪の行為が、今の報いとなること」と説明されています。
- 宿善
- これまでに積んだ善い行い。それが、教えを聞いて信じることにつながる、と説明されています。
- 兎毛羊毛
- うさぎや羊の毛。ほんの小さなもののたとえです。古い訳では「兎や羊の毛さきにつく、塵ほどの僅な」と言っています。
- 業縁
- ある行いをさせる縁。古い訳では「人を殺す業縁がなかつたから殺さぬ」と言っています。
- 邪執
- まちがった考えへのこだわり。古い訳では「心得違」と言っています。
- 持戒持律
- 仏教の決まり(戒律)を守ること。古い訳では「戒律を持ち善人になつて」と言っています。
- 賢善精進
- 賢く、善く、励んでいるように見えること。古い訳では「外形にはもつともらしい様子」と言っています。
- 虚仮
- うそ、いつわり。古い訳では「内心は不真実だらけ」と言っています。
- 唯信鈔
- 聖覚(せいかく)という人が書いた本。念仏の教えを説いています。親鸞聖人が大切にした本です。
- 五劫思惟
- 阿弥陀さまが、すべての人を救う願いを立てるために、五劫というとても長い時間、考え続けたこと。
一言でいうと
悪いことをしないのは、自分が善いからではない。だれもが、縁しだいで何でもしてしまう。だから、ただ本願にまかせる。
第十一条から第十八条までは、歎異抄を書いた人が、親鸞聖人の教えと違う考えを一つずつ取り上げる部分です。第十三条は、その三つめです。歎異抄の中で、いちばん長い条です。
たとえ
「自分なら、しない」と思っていたのに
クラスでだれかが無視されていた時、「自分なら、そんなことはしない」と思っていたのに、気づけば自分も知らないふりをしていた。そんなことはありませんか。
第十三条で親鸞聖人は、人を殺さずにいられるのは、自分の心が善いからではなく、そうなる縁がないからだ、と言います。そして、縁しだいで、人は思ってもみないことをしてしまう、とも言います。
許してくれるからといって
仲のいい友だちなら、少しきついことを言っても、許してくれるかもしれません。だからといって、わざと傷つけることを言っていいわけではありません。
第十三条は、「悪人も助ける願いだから」と、わざと悪いことをするのはまちがいだ、と言います。聖人は「薬があるからといって、毒を好んではいけない」と書かれました。
きちんとした自分だけを見せて
SNSには、きちんとした自分ばかりを見せながら、「ああいう人とは付き合えない」と、だれかを外していることはありませんか。
第十三条は、善い人だけが念仏すべきだと張り紙をする人を取り上げ、外には善く励む姿を見せて、内にはうそいつわりの心をいだいているのではないか、と言います。
たとえるなら、親にあまえる子ども
小さな子どもは、親が自分を大切にしてくれると知っているから、安心してあまえます。あまえられるのは、親の愛を信じているからです。
第十三条も、本願にあまえる心があるにつけても、他力にたよる信心が定まる、と言います。
それぞれ、次のものにあたります。
親の愛 → 阿弥陀さまの本願
あまえる心 → 本願ぼこり
親を信じて安心していること → 他力にたよる信心
この四つのたとえは、分かりやすくするために作ったものです。お寺や学者の説明ではありません。
気をつけたいこと:「宿業」を、「前の世の報いだから、しかたがない」と、人を見下したり、あきらめたりする理由には使わないでください(このサイトからのお願いです)。第十三条が言うのは、自分の善さを誇らないこと、人を善い人・悪い人に分けて外さないこと、と読めます。
出典
- 原文:本派本願寺 編『意訳聖典』(大正12年・1923年)の「歎異鈔」十三の原文と、西村九郎右衛門 編『歎異鈔』(明治44年・1911年)を照らし合わせました。どちらも国立国会図書館デジタルコレクションで公開されています。第十条までと同じ書き方(「まふす」「ゆへ」など)です。旧字は今の字に、くり返しの記号(ゝ・〳〵)は字に直しました。二つの本で違う所は、もう一つの本文(東本願寺発行『真宗聖典』)と同じ方にしました。三つとも違う所(②の「宿善」)も、『真宗聖典』と同じ方にしました。「ゆへ」「さふらう」は第十条までにそろえました。読点は、二つの本のどちらかにある所に打ちました。『真宗聖典』の本文は『親鸞仏教センター通信』第16号・第17号で見ました。 意訳聖典(国立国会図書館) 歎異鈔 1911年(国立国会図書館) 通信 第16号 第17号
- 本派本願寺 編『意訳聖典』(大正12年・1923年)の「歎異鈔」十三の意訳と、巻末の言葉の解説。 ウィキソース 国立国会図書館
- コトバンク「歎異抄」。 kotobank.jp
- コトバンク「宿業」。 kotobank.jp
- コトバンク「五劫思惟」。 kotobank.jp
「やさしい訳・解釈・たとえ」は、出典をもとに GREEN EARTH HAYAMA が独自の解釈でまとめたものです。宗派や寺院の公式な解釈ではありません。読み方は、宗派や研究者によって異なります。
本コーナーで扱う原文は、約700年前に記された『歎異抄(たんにしょう)』の蓮如(れんにょ)書写本に基づいています。