やさしく読む歎異抄 第八条 念仏は行者のために非行・非善なり
「頑張って積むものではない」
一言でいうと
念仏は、頑張って積む「修行」ではない。
阿弥陀さまの力に動かされて、口から出るもの。
こんな気持ち、ありませんか?
「毎日続けた記録」がほしくて
アプリで「連続○日」と数えると、続けた自分が偉く思える。
念仏も、「何回唱えたか」を数えたくなるかもしれません。
第八条は、念仏は自分の考えでつとめる「修行」ではない、と言います。
「いい人」と思われたくて
人に見てもらうための親切を、してしまうことはありませんか。
第八条は、念仏は自分で作る「よい行い」でもない、と言います。
頑張った分だけ、報われたい
「これだけやったのだから」と、見返りを待ってしまう。
第八条は、念仏はまったく阿弥陀さまの力によるもので、自分の力から離れている、と言います。
たとえるなら、思わず出る「ありがとう」
困っている時に助けてもらうと、思わず「ありがとう」と言います。
それは、点数を稼ぐための言葉ではありません。
相手の優しさが、自然に言わせた言葉です。
第八条の念仏も、自分で頑張って出すものではなく、阿弥陀さまの力に動かされて出てくるものだ、と言います。
相手の優しさが阿弥陀さまの力、「ありがとう」が念仏にあたります。
この四つのたとえは、分かりやすくするために作ったものです。お寺や学者の説明ではありません。
原文とやさしい訳
原文 1
念仏は行者のために非行・非善なり。
やさしい訳: 念仏は、唱える人にとって、「修行」でも「よい行い」でもありません。
原文 2
わがはからひにて行ずるにあらざれば非行といふ。
やさしい訳: 自分の考えでつとめるものではないから、「修行ではない(非行)」と言います。
原文 3
わがはからひにてつくる善にもあらざれば非善といふ。
やさしい訳: 自分の考えで作るよい行いでもないから、「よい行いではない(非善)」と言います。
原文 4
ひとへに他力にして自力をはなれたるゆへに、行者のためには非行・非善なりと云々。
やさしい訳: 念仏は、まったく阿弥陀さまの力によるもので、自分の力から離れているからです。だから、唱える人にとっては、修行でも、よい行いでもないのです。――と、(親鸞聖人は)おっしゃいました。
④の最後の「と云々」は、「と、おっしゃいました」という意味です。歎異抄は、弟子が聞いた親鸞聖人の言葉を書き残したものです。
言葉の意味
- 行者
- 念仏を唱える人。古い訳では「仏を信じて御名を称へる行者」と言っています。
- 非行・非善
- 「修行ではない」「よい行いではない」ということ。古い訳では「わが行とはいはれませぬ」「わが善ともいはれませぬ」と言っています。
- はからひ
- 自分の考えで、こうしようと取りはからうこと。古い訳では「わがはからひで、つとめて称へる」と言っています。
- 他力・自力
- 他力は、阿弥陀さまの願いの力。自力は、自分の力のこと。古い訳では「全く他力にもよほされてする事」と言っています。
出典
- 原文:蓮如(れんにょ)が書き写した本の第八条。親鸞仏教センター(真宗大谷派)講座資料「『歎異抄』思想の解明」(2026年3月17日)に載っている本文と照らし合わせました。「佛」は「仏」に直しました。 shinran-bc.higashihonganji.or.jp(PDF)
- 本派本願寺 編『意訳聖典』(大正12年・1923年)の「歎異鈔」序・八。 ウィキソース
- コトバンク「他力本願」。 kotobank.jp
当コーナーでご紹介している「やさしい訳・たとえ・説明」は、出典をもとに GREEN EARTH HAYAMA が独自の理解に基づいてまとめたものです。宗派や寺院による公式な解釈ではなく、また読み方や解説は宗派・研究者によって異なる場合があります。あらかじめご了承ください。
本コーナーで扱う原文は、約700年前に記された『歎異抄(たんにしょう)』の蓮如(れんにょ)書写本に基づいています。