やさしく読む歎異抄 第九条 念仏ねんぶつまふしさふらへども

「喜べない自分でも、大丈夫」

一言でいうと

喜べない自分でも、大丈夫。
そんな人のための願いだから。

こんな気持ち、ありませんか?

楽しいはずなのに

旅行や誕生日。楽しいはずなのに、なぜか心が動かない。
「こんな自分は、どこかおかしいのかな」と思ったことはありませんか。

親鸞しんらん聖人しょうにんの弟子の唯円ゆいえんも、同じように悩んでいました。
「念仏をしても、喜びがわいてこないのです」と、先生の親鸞聖人に打ち明けました。
すると親鸞聖人は、「私も同じだったよ」と答えました。

少しの不調で、不安になる

少し体調をくずすと、「大きな病気かも」と、つい検索してしまう。
第九条は、ちょっとした病気で心細くなるのも、煩悩のしわざだ、と言います。

今の暮らしを、手放したくない

つらいこともあるのに、今の暮らしをずっと続けたいと思うことはありませんか。
第九条は、苦しみの多いこの世を離れたくないのも、まだ見たことのない浄土を恋しく思えないのも、煩悩が強いからだ、と言います。

たとえるなら、先輩の「私も同じだった」

新しい職場で、まわりは楽しそうなのに、自分だけ仕事が楽しいと思えない。
思い切って先輩に打ち明けると、先輩は笑ってこう言いました。
「私も最初は同じだったよ。だから、新人にはちゃんと教える係がつくんだよ」

第九条の親鸞聖人の答えも、これに似ています。
「私も同じだった」と言ったうえで、喜べないのは煩悩があるからで、阿弥陀あみださまの願いは、まさに、そういう人のためのものだ、と言います。
先輩が親鸞聖人、打ち明けた新人が唯円、教える係が阿弥陀さまの願いにあたります。

この四つのたとえは、分かりやすくするために作ったものです。お寺や学者の説明ではありません。

原文とやさしい訳

①は、弟子の唯円ゆいえんのたずねです。②〜⑪は、親鸞しんらん聖人しょうにんの答えです。

原文 1

念仏ねんぶつまふしさふらへども、踊躍歓喜ゆやくかんぎのこころおろそかにさふらふこと、またいそぎ浄土じょうどへまひりたきこころのさふらはぬは、いかにとさふらうべきことにてさふらうやらんとまふしいれてさふらひしかば、

やさしい訳: (私、唯円が)「念仏を唱えてはいますが、おどりあがるような喜びの心が、あまりわいてきません。また、急いで浄土へ行きたいという心も起きません。これは、どういうことでしょうか」とおたずねすると、親鸞聖人はこう答えました。

原文 2

親鸞しんらんもこの不審ふしんありつるに、唯円房ゆいえんぼうおなじこゝろにてありけり。

やさしい訳: 親鸞しんらんも、前から同じ疑問をもっていました。唯円房も、同じ気持ちだったのですね。

原文 3

よくよく案あんじみれば、天におどり地におどるほどによろこぶべきことをよろこばぬにて、いよいよ往生おうじょうは一定いちじょうおもひたまふなり。

やさしい訳: よくよく考えてみると、天におどり地におどるほど喜んでよいことを喜べないのだから、なおさら、浄土に生まれることは決まっていると思ってよいのです。

原文 4

よろこぶべきこころをおさへてよろこばざるは煩悩ぼんのうの所為しょいなり。

やさしい訳: 喜ぶはずの心をおさえて、喜ばせないのは、煩悩のしわざです。

原文 5

しかるに仏ほとけかねてしろしめして、煩悩具足ぼんのうぐそくの凡夫ぼんぶとおほせられたることなれば、他力たりきの悲願ひがんはかくのごとし、われらがためなりけりとしられて、いよいよたのもしくおぼゆるなり。

やさしい訳: けれども、仏さまは前からそれを見ぬいて、私たちを「煩悩をたくさんかかえた、ふつうの人」と呼んでくださっています。だから、阿弥陀あみださまの慈悲の願いは、こんな私たちのためのものだったのだと分かって、ますます頼もしく思えるのです。

原文 6

また浄土じょうどへいそぎまひりたきこころのなくて、いささか所労しょろうのこともあれば、死なんずるやらんとこころぼそくおぼゆることも煩悩ぼんのうの所為しょいなり。

やさしい訳: また、急いで浄土へ行きたいという心もなく、少し病気になると「死ぬのではないか」と心細くなるのも、煩悩のしわざです。

原文 7

久遠劫くおんごうよりいままで流転るてんせる苦悩くのうの旧里きゅうりはすてがたく、いまだむまれざる安養浄土あんにょうじょうどはこひしからずさふらふこと、まことによくよく煩悩ぼんのうの興盛こうじょうにさふらうにこそ。

やさしい訳: はかりしれない昔から、生まれかわり死にかわりしてきた、苦しみの多いこの世は、住みなれたふるさとのようで捨てにくく、まだ生まれたことのない浄土は恋しく思えない。それは、それほど煩悩が強く盛んだからです。

原文 8

なごりおしくおもへども、娑婆しゃばの縁えんつきてちからなくしておはるときに、かの土どへはまひるべきなり。

やさしい訳: 名残惜しくても、この世での縁がつきて、どうしようもなく命が終わる時に、あの浄土へ行くのです。

原文 9

いそぎまひりたきこころなきものをことにあはれみたまふなり。

やさしい訳: 阿弥陀あみださまは、急いで浄土へ行きたいと思えない人を、とくに哀れんでくださるのです。

原文 10

これにつけてこそいよいよ大悲大願だいひだいがんはたのもしく、往生おうじょうは決定けつじょうと存ぞんじさふらへ。

やさしい訳: だからこそ、ますます阿弥陀あみださまの大きな慈悲の願いが頼もしく、浄土に生まれることは決まっていると思えるのです。

原文 11

踊躍歓喜ゆやくかんぎのこころもあり、いそぎ浄土じょうどへもまひりたくさふらはんには、煩悩ぼんのうのなきやらんと、あしくさふらひなましと云々うんぬん。

やさしい訳: もし、おどりあがるような喜びの心もあり、急いで浄土へ行きたいと思うようなら、「自分には煩悩がないのだろうか」と、かえって心配になるでしょう。――と、(親鸞しんらん聖人しょうにんは)おっしゃいました。

⑪の最後の「と云々うんぬん」は、「と、おっしゃいました」という意味です。

言葉の意味

踊躍歓喜ゆやくかんぎ
おどりあがるほど喜ぶこと。古い訳では「飛びたつやうな喜び」と言っています。
唯円房ゆいえんぼう
親鸞聖人の弟子の唯円。歎異抄たんにしょうを書いたのは唯円だ、という説が一般的です。
不審ふしん
不思議に思うこと。疑問。古い訳では「不審に思つてゐた」と言っています。
煩悩具足ぼんのうぐそくの凡夫ぼんぶ
迷いの心(煩悩)をたくさんかかえた、ふつうの人。古い訳では「煩悩づくめの凡夫」と言っています。煩悩は、体と心を悩ませ苦しめる心のはたらきのことです。
悲願ひがん
仏さまの、慈悲の願い。古い訳では「仏の御慈悲の御本願」と言っています。
所労しょろう
病気。古い訳では「いさゝかな病」と言っています。
久遠劫くおんごう・旧里きゅうり
はかりしれない昔から、生まれかわり死にかわりしてきた、住みなれたふるさと。ここでは、この迷いの世界のこと。古い訳では「久遠劫来生れかはり死にかはり住みなれた苦悩の旧里」と言っています。
安養浄土あんにょうじょうど
浄土の別の呼び名。古い訳では「安養の浄土」と言っています。
娑婆しゃば
私たちが今生きている、この世。
決定けつじょう
決まっていること。古い訳では「往生は決定と思はれます」と言っています。

出典

  1. 原文:蓮如(れんにょ)が書き写した本の第九条。親鸞仏教センター(真宗大谷派)講座資料「『歎異抄』思想の解明」(2026年5月19日)に載っている本文と照らし合わせました。資料の「親巒」は「親鸞」と書きました。 shinran-bc.higashihonganji.or.jp(PDF)
  2. 本派本願寺 編『意訳聖典』(大正12年・1923年)の「歎異鈔」九。 ウィキソース
  3. コトバンク「唯円」。 kotobank.jp
  4. コトバンク「煩悩」。 kotobank.jp
  5. コトバンク「娑婆」。 kotobank.jp

当コーナーでご紹介している「やさしい訳・たとえ・説明」は、出典をもとに GREEN EARTH HAYAMA が独自の理解に基づいてまとめたものです。宗派や寺院による公式な解釈ではなく、また読み方や解説は宗派・研究者によって異なる場合があります。あらかじめご了承ください。

本コーナーで扱う原文は、約700年前に記された『歎異抄(たんにしょう)』の蓮如(れんにょ)書写本に基づいています。

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